もしかしたらあの子の背が伸びた事に驚くかもしれない。聲変わりはまだしてないのだが、幼かった表情も少しずつ男らしくなってきた。
風情だとかそんなものに興味は無い。けれど、その時の景色は悔しいほどに美しかったんだ。
「いい加減成仏しなさいよね」
未練たらしい父の面影。その場所へ行く度に厳格の無い眼を向けて、優しく微笑んでくる。
まだ沈み切らないあの夕日のように、表の世界に留まろう留まろうとしているその姿が少しだけ憎たらしい。腹立たしい。
ここへ來てまずする事といえば、その未練たらしい父が天に召されて欲しいがために、しつこく說得する。しかしもう何回目だろうか、全く消え失せる気が無いようだ。
「シュイリスも何か言ってやりなよ、この人いつまでもここに居る気よ?」
「……うん」
本當に久方ぶりなので、弟も少々緊張している様子。
夕焼けに照る墓石の前に真っ直ぐ立って、両手を合わせ俯いた。その背中も、前來た時よりも大人っぽくなったように感じる姉。
「ぼく、もう平気だよ。お父さんは早くお母さんのところに行ってあげてよ」
もう少し「俺」だとか男っぽい言い方はしないのかと、つくづく思う。これはこれで弟らしいといえばそうなのだが。
母は、父が亡くなる3年前に先立った。治らない病気によって。
潔く天に召されて行き、壹番泣いたのは父だ。殘された二人の子供の前でもお構いなく、父としての威厳も何も無い。子供たちを不安にさせるだけであった。それゆえ、父の事は尊敬できない心持ちなのだった。
確かに心優しくて周囲の友達からは羨ましがられるほど、暖かな父だった。「うちのお父さんと交換したい」という心無い言葉を幾度と浴びせられた。
いざこの父を実父にした途端、その情けなさがよく分かるだろうと心中で思うだけで、決して言葉にはしなかった。
言葉にしてしまえば、積み木の砦が崩れてしまいそうだったから。
「愛する息子と娘が言ってるのに、まだ分かんないの? 母さんが待ってるんだってば!」
霊體となった父の首は、夕焼けを見たまま動かない。天へ升る決心が付かないのだろうか、そしてそれが郁陶しいというかハッキリ物事を決めずに情けないというか。そんな父は嫌いだ。
そんな父の背中を追ってきた二人の子供。絕対にこんな決心付かない大人にならない、という意思がそのおかげで強くなったのかもしれない。
姉のニーナ、弟のシュイリス。二人の子供の心はたくましく育った。
「お姉ちゃん」
「……そうね、やるしかないかも」
父が亡くなって3年が経った。そして6年前に亡くなった母。
二人の子供は、自分たちで出來る事が無いかとこの道を選んだ。
どんな綺麗な景色だって、どんな美しい絵だって、それらは光を感じないと風情を感じない。
「お父さん、聞いててね。ぼくたちの唄
うた
」
そう、光を感じても闇の中でもその美しさを味わえる――『音』という蕓術の道を。
「お母さんは、この唄聞いてるかな」
「聞いてるわよきっと。だってあの人は、父さんの側にずっと……」
別に霊感が強いわけではない。亡くなった魂を感じる事が出來るわけでもない。ただ、親の溫もりは本能的に忘れないものだ。それを身近に感じるのは、父母がすぐ近くに居るという證拠だろう。
懐に抱える楽器、眩しく夕日を反射する。互いに合図を送って、壹音目をそっと弾く。
******* *******
ちゃんと母のもとへ向かったかどうかは分からない。けれど、感じていた父の溫もりは側から離れていくのがなんとなく察知できた。
「ね、シュイリス。寂しくない?」
からかうように顏色を伺おうとしたが、弟は微笑み返して「大丈夫」と答えた。純粋で素直なシュイリスの性格は恐らく母親似だ。
「……でも」
「ん?」
「何かね、この辺りが痛い」
ゆっくりと指差したのは、自身の胸の中心。それは遠まわしに胸が痛むと訴えているのだろう。
揺られる列車の中、ニーナは黙って弟の隣に席を移り替え、そっと頭に手を置いてあげた。
「それは、あんたが優しいからよ」
「えっ……?」
自分で言ったその言葉、深い意味を理解されなくたって別にいい。
ただ弟の――シュイリスのことをそう褒めてあげたかっただけ。胸が痛むのは、それほど暖かく想っていたからだと。
両親と別れ、二人は馴染みの地を離れて旅立った。それは少し早い、親離れなのかもしれない。彼女たち、ニーナとシュイリスは『音』の道を行く事にしたのだった。
「寢ちゃったか」
姉の二の腕辺りに頭を寄りかけたまま、シュイリスは短調な寢息を立てて眠っていた。
これから二人はどこへ向かうのか。それは彼女たちにもよく分かっていない。思いつきで決めた場所で列車を降りる。そう決めていた。
「……はぁ~」
何気なく溜め息が零れた。抱えていた重荷がやっと降りたというか、そんな感じ。
壹件落著。そんな言葉がよく似合う気分だ。だから今の溜め息は、明るい気分の溜め息。
『―――やっと、芽生えた……』
「は?」
すると突然の事。
頭の上の方から、野太い聲が両耳に響き渡った。車內アナウンスかとも思ったのだが、こんなに低く濃味の聲色を使うわけない。
「……何よ、今の?」
あんな墓地にいたのだから、誰かが取り憑きでもしたのか。そうも考えられる。しかしニーナは自覚するほど霊感は全く無い。父を感じていたのは、ただ”なんとなく”だ。
では、そうすると今の聲は? やっぱり何か憑いたのだろうか。だとすると背筋が凍るほど怖い。
「…………」
それから暫く表情を険しくして警戒していたが、列車の車輪の音とシュイリスの寢息しか耳に入って來ない。
空耳。きっとそうだ。疲れが出たんだろう。
父が亡くなってから、身寄りの居る隣國へ出掛けていた。その遠出の疲れだろう。
それでもだんだん胸中が騒がしくなって、落ち著かなくなる。
「シュイリス……っ」
和やかに眠る弟の頭を抱き寄せ、その恐怖を噛み締めておく。この子の姉として、たった壹人の家族として、シュイリスが起きてる間は決して弱みは見せられない。弱みを握られれば、それは父の二の舞となってしまう。ニーナは父のようになりたくない。
「もしあたしに何か憑いてんのなら、シュイリスには絕対近寄らないで……!!」
弟の髪に顏を埋めたまま、小聲で自分の中に訴えた。
「ん、お姉ちゃん?」
姉の聲に起きてしまったのか、シュイリスはその體勢のまま目線だけニーナの方へ。
(本當は怖がりなんだよ、いつも強がりだけどね。お姉ちゃんは……)
今度は姉が、弟の側で泣き寢入りしていた。